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有利な交渉を進めるためには、「相手に楽をさせない」
交渉の奥義の1つとして、お金は後払いという法則があります。こちらが支払わなければならない金額が争いになっている場合に、散々話し合った挙句、仮に500万円という金額が本来支払うべきラインとして浮かび上がってきたとしましょう。この場合、こちらから「はい、すみませんでした。」と、速やかに500万円を相手方に振り込んであげる人がいますが、これでは何ら交渉したことにならず、相手は楽々妥当な金額を回収できてしまうことになります。内心「まさかすぐに払ってくるとは…よかった。」と
ほくそ笑むことでしょう。しかし、この場合は、「確かに500万円という金額は妥当かもしれないが、金額が金額なだけにすぐには支払えない。400万円くらいに負けてくれたら親戚から借りてでもすぐに支払うが、あくまで500万円というなら、分割で長期返済させてもらう。」と交渉すべきです。分割払いは、いつ支払いがストップするかわかりませんし、強硬に500万円を主張して法的手続きをとろうとしても、差し押さえるものが見つからないかもしれません。相手方が400万円の一括払いを選択する確率も低くはないのではないでしょうか。
恋愛でも同じですね。男性が女性を熱烈に口説いている場合に、女性が簡単に男性を受け入れてしまっては、「釣った魚に餌をやらず」で、男性のサービスが一気に低下してしまうことは火を見るより明らかです。
このように、それが妥当である場合、自分がそうしたい場合、自分も相手と同意見である場合であっても、相手に楽をさせることは得策ではありません。
例として、会社が従業員に対して、退職を勧奨するというケースを取り上げます。
会社にとって問題のある社員をクビにしたいが、クビにするだけの法的根拠がないということはよくあることだと思います。ご存知のとおり、日本の労働法は労働者優位になっていまして、それなりの解雇理由がないと解雇できません(労働契約法16条)。安易に労働者を解雇したところ、後日、当該労働者から解雇無効として訴えられ、長期にわたる裁判の結果、裁判所で解雇が無効と認定され、解雇日から裁判終結までの賃金も支払わされるなんてことはよくあります。
では、会社側はどうしてくるかといいますと、労働者を解雇するのではなく、労働者の方から会社に対して退職届を出させるという方法をとることになります。自分で退職届を出した人は、後から不当解雇だとは言えなくなりますから。
そのような前提知識をもとに、事例を作りましょう。従業員Aは、会社の上司と折り合いが悪く、自分でも退職したいと思っているとします。さらに、今まで残業代をもらっていない部分があると思うので、それを請求したい、パワハラによる慰謝料も請求したい、とも考えています。
会社の方はといいますと、Aは問題社員なので、即刻クビにしたいが、解雇する理由まではないことは分かっています。裁判になったら解雇無効と認定されると認識しているとします。他方で、残業代については、いくらかは支払う義務があるかもしれないが、会社側にも言い分があって、これは十分戦えると思っています。パワハラについては裁判では認定されないだろうと思っているとします。このような事例で考えてみましょう。
Aは会社から、「A君、君は能力が低いわけではないんだが、当社の社風には合わない。それは君も分かっているだろう。多少、金銭面で再就職の支援をするから、とりあえず退職届を出してもらえないか。」と言われたとします。Aとしても退職は望むところですから、まずは退職届を出して、それから残業代や再就職支援のお金やらの交渉をしようとするのが普通でしょうか?ところが、この事例で退職届を出してしまったら、会社はたぶん1円も出してくれないでしょう。会社としては、解雇理由がないので、裁判にだけはしたくないと思っていました。退職してもらう代わりにいくらか手切れ金を払わざるを得ないと思っていたところでしょう。ところが、Aからあっさり退職届が出てきたので、解雇する必要がなくなり、解雇の有効性の論点で負けることがなくなったのです。会社は、残業代やパワハラ問題については、裁判でもなんでも付き合ってもよいと思っているので、強気になれます。
この場合、Aは、「退職するのはやぶさかではありません。しかし、私は悔しいのです。このような不当な扱いを受けたことや、未払いの残業代があることについて、謝罪してもらいたいくらいです。謝罪まではしてくれなくてもよいのですが、金銭的な補償をしてくれない限り、私は気持ちよく退職することができません。」と反撃すべきでした。そうすると、退職届を出してもらいたい会社としては、解雇無効の裁判に関する弁護士費用や、裁判で負けた場合のリスクを考慮して、それなりの金額をAに対して支払ってくることになります。
要するに、あっさり退職届を出してしまって、会社に楽をさせるのは得策ではないということです。
時評2010年6月号掲載